脱サラマスターの苦悩~苦手意識をなくし、コミュニケーションを考える~

コーチングを受けて早二年が過ぎた錦織さんは、喫茶店のマスターです。
喫茶店激戦地域とも言われる地域での厳しい競争の中、マスターこだわりの店になっているせいか、常連のお客様が多く、皆様思い思いのコミュニケーションの場になっています。
このごろは、定年退職された男性のお客様がモーニングの時間に多く来られるようになり、急に自由になった時間を持て余しているのか時間つぶしに長く店にいらっしゃいます。店内はお昼までの待合室の様相を呈する時間もあり、これまでとは少し雰囲気が変わった気がすると、こぼしていました。
ところで、最近の午前中の、このなんとも重苦しい雰囲気は、自分の意図している喫茶店の雰囲気とは全くことなるもので、マスター自身も居心地が悪いと、セッションのテーマに選ばれました。

「このごろは喫茶店の経営そのものに関するテーマが少なくなっていましたが、今日は珍しいですね」
「ええ、今日だけで解決するような問題ではないように思います。とにかく、この朝の重苦し
い雰囲気を変えたいんですが、さりとて、男性のお客様入店お断りというわけにはいかないですからネェ・・」

「どんな点が一番気になるんですか?」
「覇気がないというか、活気がないというか、とにかく雑誌や新聞をたくさん席に持ち込んで、コーヒーを飲み終わると、水だけで場所を占領する。まぁ、朝早い時間は、お客様が多いわけじゃないし、ビジネスマンが利用する時間帯よりは少し遅れて入ってくるので、むしろ、売り上げは増えているんです。ただ、とにかく空気が重くなるんですよ・・・」

「空気が重くなる。それが一番気になる点ですか?」
「ええ、元気がないし、会話がない。オーダーを受ける際、『モーニング』といったまま、後はお水のお変わりを注ごうが、カップをさげにいこうが、とにかく黙ったまま。たまに話しかけてくるお客さんがいるかと思うと、景気はどうか?とか、新聞が汚れているとか、雑誌の次の発売日はいつかとか。あるいは、政治の話で、こちらは客商売なんだから、お客様と議論するわけにはいかないんだから、『そうですね』、『いいですね』と相づちを打つだけにしていると『あんた、何にも考えてないのか?』なんて意見されてしまう。この間なんか『マスターはなんにも考えないでコーヒーを出していればいいんだから、いいよな』『我々が苦労して働いてきた上前をはねているんだから・・・』『定年後の我々にいままでありがとうの気持ちはないのかね。もっと、まじめに受け答えしろよ』って怒られてしまったんですよ。午後の食事過ぎにいらっしゃる主婦のお客様のご近所ネタも困るけれども、こちらのほうが、まだ、雰囲気が華やかなだけに、居心地はいいんです」

「なるほど、主婦の客層と、男性の客層ではあきらかな違いがあるんですね」
「そうなんです。どっちがいいとか悪いとかじゃないけれども、好きなのは、午後の主婦のお客様のほうですね。答えるのに困るような質問はめったになく、どちらかというと、私を相手に、愚痴をこぼすような感じでいらっしゃって、『話すだけ話したらすっきりしたわ・・ありがとうね、マスター』といって明るい顔で帰ってくれるんです」

「男性のお客様は、そういうわけにはいかないんですね?」
「ええ、ぜんぜんダメですね・・・」

「単刀直入に伺いますが錦織さんはどうしたいんですか?」
「うん・・・売り上げは減らせないから、来るなとはいえない。これははっきりしています。でも、それ以外は、どうしたらいいか・・・まったく分かりません」

「男性客の嫌な点は、雰囲気が暗いということでしたね?」
「はい、そうです」

「他には?」
「会話にならないことでしょうか?私も聴かれたことには答えるけど、それ以上にはならない。議論は振られても、議論してはならない」

「議論をしたことはあるんですか?」
「議論に巻き込まれそうになったことはあります」

「お客様は不愉快そうだった?」
「不愉快と言うか・・苦虫つぶしたような表情だったけど・・・」

「お客様から話しかけられるのは、議論が多いわけではないですよね?」
「ええ・・」

「でも、かわしてしまうのはどうしてなんでしょう?」
「苦手意識があるのかな?」

「どうしてそう思ったんですか?」
「うん・・なんとなく・・・」

「なんとなくそう感じたんですね」
「うん・・・昔、サラリーマンのおちこぼれって言われたことが尾を引いてるのかな?」

「脱サラしてコーヒーショップを開いたころの評価が思い出されるの?」
「そうですね。サラリーマンを全うした彼らに、負い目と言うか・・・」

「うん・・・・深い心の闇を見せていただいた気がしますねぇ・・。その勇気に感謝します」
「そんな、勇気だなんて・・・」

「マスターの人生って、今何合目なんでしょう」
「え?」

「ごめんなさい、唐突過ぎましたね。人生を山登りになぞらえて考えると、今、何合目でしょう?」
「ああ・・六合目かな?」

「六合目まで昇った満足感は?」
「満足感は八〇点。いろいろあったからネェ・・よく頑張ったって思うよ。こんなこと、あんまり考えてなかったけど・・」

「では、六合目まで昇った充実感は?」
「・・・」

まったく予期しない質問に、マスターは長く沈黙し、考え込んだ後小さな声で「やっぱり八〇点」と答えてくれました。
ビジネスパーソンとしての人生を含めて、マスターの六二年の人生は、満足感も充実感もあるそうです。しかし、段階の世代といわれる同世代の人たちが、会社人生を卒業してくるのを見たとたん、自分の人生の軸を「他人」においてしまったようです。自分の人生は自分のものだからこそ、「自分軸」で生きることが大切であることを、この後三回のセッションで取り戻したマスターは、今ではお客様と元気よく議論することがあると言います。組織人だったビジネスパーソンは、組織から開放されたとたん、誰とも真剣に話す機会がなく、淋しい思いをしていることを、お客様から教えられたマスターの新たな接客サービスの一つになったのです。
男性は、とかく自分の感情を表に出したがりません。ここにコミュニケーションが上手くいかない理由があるのです。
お客様との議論は、勝ち負けではなく、相手の言いたいことを汲み取り、自分の意見も主張する良い機会として、他のお客様を巻き込むこともあり、午前中も活気ある雰囲気が取り戻せたそうです。


竹内 和美

竹内 和美 (たけうち かずみ)
エイジング・アドバイザー®/世渡り指南師®/プロフェッショナル・キャリア・カウンセラー®/認定キャリア・コンサルタント/認定エグゼクティブ・コーチ
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